昭和42年06月09日 朝の御理解
信仰によって霊肉の助かりを頂かなければならん。霊の助かり肉の助かり。色々な宗教があって、肉の助かり、いうなら、言者的助かりと言うような、いわゆる御利益とでも言いますね。私どもが言うおかげと、そういう御利益的のある宗教は、低級な宗教だと、信仰だと言った様な事を言う人があるんです。じゃあ教団の中にでもそれが、少しあるようですね。おかげばかりおかげを頂く教会、ごひれいの立つ様な教会。
ほんとにおかげを受けておると。それをなんか、金光様のご信心じゃない様なに言う人があります。金光様のご信心はどこまでも、おかげが伴なわなかったら、金光様のご信心じゃない。けれども問題はいわゆる霊の助かり、いわゆる御霊の助かり、いわゆる自分の魂の助かり。霊肉共に助かって行くところの、おかげを受けなければならん。段々信心を分からしてもらい、ほんとの事が段々分かって来る様になりますと、確かに物の見方考え方が変ってくる。
心の中に一つの悟りと言ったようなものが開けてくる。ほんと今まで苦しかったと思ておった事の中にでも、苦しさを感じんで済む様なおかげが受けられる。ね。それだけでけれどももし、肉の助かりというものがなかったら、どうもそれはほんとの事じゃない様に思う。「火の中もまた涼し」と。ね。どういう難儀どういう苦しみの中にあっても、もうその、火の中にあっても涼しいと言う様な、気持ちが開けてくる。矢張り宗教の力と言うものは偉大である。
けれどもその偉大なそういう、心の上におかげを頂いたら、そういう悟りが開けてきたら、そういう悟った心そういう救われた心、そういう救われた心を持って人の世の為に、無条件の奉仕がなされる。それが自分の心の喜び心が助かっている、行く所の喜びがです、いわゆる神恩報謝の心ともなって、神恩報謝の現れが次の働きになってくる。「人が助かる事さえできれば」とか、ね、「世の中の難儀を見ておってはじっとしておられない」と言ったような、神心を持って、その事に奉仕をする。そこから私は「天地の御信用」と言うものが付いてくる。神様は愈々お喜び下さるんですね。
汚い心じゃない綺麗な心。条件の無い心美しい心。美しい心とは私はそう言う様にです、自分の心が助かる、救われておる時の状態だと思う。本当は。そこで「お互いが美しゅうなりましょうや」と。美しゅうなる稽古をさして頂こうと言うのは、愈々自分の魂が救われて行く。心が助かって行くところの、おかげを頂く為にも限りなく美しゅうならして頂く精進がなされていかなければならぬ、ね。
そして自分の心がですいわゆる助かってくる救われてくる。確かにその心が救われ助かってくるということはですね、結局はその物の見方考え方って言うのが、根本的に違ってくるわけです。ね。例えば病気なら病気をすると言う難儀がある。貧困なら貧困と言う、もう貧乏なら貧乏と言う難儀がある。はあこの貧乏の中からこの難儀な病気の中から、救い上げてもらいたいと言う、その思いをのではなくてです。
その病気の中に貧困の中にです、喜びを分からして頂くと言うのである。そこまでを本当の信仰だと言う人達があるんですね。おかしいです。それから先が金光様のご信心の素晴らしいところだと思うんです。ね。貧乏の中にあっても有り難い、まあ例えて言うなら、いつもそのたとえ話に申しますように、私がもう難儀の一番いわゆる修行中の時分その久保山先生や秋永先生なんかが、付いて回っておられた時分です。ね。
付いて回ると言うてもその、どこに付いて行くかと言うと、私はあちらこちらにお話にまいります。もうそのもう有り難うして有り難うしてこたえんのですよね。信心すりゃこういうふうに自分の心が救われてくる。助かってくる。その喜びをですね人にも伝えなければおられない、難儀の人があると言うとそこにお話しに行く。そういう時分にですね、久保山先生が言うておられたんですよ。
大坪さんほんなこてあなたのごと、そげん言うならば難儀をしておられてですよ、ほんなこて、そげん有り難いとですかちゅうて。所が確かに有り難かったんです。矢張り魂が助かっておったんですね。魂は救われておるんです教えによって。その救われたその魂その心を持ってです愈々、世の中の為に難儀な氏子の取次ぎ、助けられて行く事の為に奉仕をして行った。
私がもしお徳と言う様な言葉では、大変恐れ多いですけれども、もしお徳を受けておるとするならばですね、私あの時代にお徳を受けたんだと思うです。ね。例えば久保山先生の目から見たら、とてもとてもああいう難儀な中にです、ほんなこて喜びが湧くじゃろうかと。私が有り難い有り難いと言うておるのは、ほんとの事であるじゃろうかとお思いなさる様な状態の中にです。
とにかく人が喜ぶ事であるなら、人が助かる事であるならば、もうそれに奉仕しなければおられなかったと言う心なんです。そういう救われたいわば美しい心とはそういう心。そういう心を持って奉仕をする。人の世の為に人が助かって行く事の為に。天地が感動しなさらん筈がない、感動が天地が感心しなさらんはずがない、天地の緩和がない筈がない。いわゆる天地が信用なさらん筈がない。
「お徳とは天地の信用だ」と、「神様の御信用だ」と。ですからまず魂が清まり魂が助かり、その清まったその心で奉仕すると言うところがなされてくる時にです、これはもう嫌と言うてもいらんと言うても、ね、肉の助かりは、もうこれは必要なものなのです。絶対のものなのです。ね。いわゆる「無限供給」と言う、無限限りの無いおかげに触れて行かれんはずがない。どんなに高徳な坊さんだと言うても、ね、どういう徳を受けた先生だと言うても、ね。
ただ魂が助かったと言うておるだけでは、高徳とは言えない。ね。そこに天地の信用と言う裏付けがあって、無限供給のおかげの受けられる人であって、私は徳者だと言うことが言えると思う。魂が助かって行く。ね。そして後にその魂魂の清まった魂清まった心を持って社会奉仕をして行く。人の為に奉仕をする。そこにいわゆる霊の助かりから、肉の助かり霊肉共に助かって行く、と言う信心がおかげが頂けて来る様になるのです。私先日ある本を読ませて貰いよったら、お道の先生が書かれた。
徳の高い先生が書かれた書物なんですよ。そのえらい皮肉ったその、表現で書いてあるんですね。世の中にはある宗教のごときは、心が助かると言う事だけを、まあ叫んでおる。それに御利益なんかが尽くのはほんな宗教じゃない、と言った様な事を言うておる。それが年末ともなると「何々鍋」と言うものを用意して、そして道を通る人達にその貧しい難儀な人達の為に、その寄付をしておくれと言うてその、ね、これはもう私は言わずと知れた、キリスト教の事言っておられると思うんですよね。
キリスト教なんかは最近のキリスト教なんかはそういう肉の助かりの事言わない、魂の助かりの事だけ。そしてその霊験とかおかげと、病気が信心で治ると言った様な事はありえない。信心して金持ちになると言う様な事はあるはずはない。そう言う事を言う信心はそれは低級な信心だというふうに言うんです。ね。そういうふうな事を言うておる、そういう金看板にしておる、○○いわゆるキリスト教がですたい、まあそれにはキリスト教と書いて御座いませんけれども、もうまさしくそれだと私は思うんです。ね。
そのキリスト教がです愈々年末ともなると慈善鍋と言うものを用意してその中に、道を通る人達をですねそれこそ呼びかけて絶叫しながら、絶叫してどうぞ難儀な貧しい人達の為にお恵み下さいと言うわけなんです。それで○○と言うそのそういうそのキリスト教のです、最近では矢張り霊の助かりだけじゃいかん、肉の助かりと言うものを考え出したのではなかろうかと言う様な事を書いてあった。本当にそうですよね
皮肉じゃないほんもの。霊の助かりだけでええならば、それがまた慈善鍋てなんて用意する必要はなか。ね。だからどうでも人間生きて行く上にはです、魂が助かると言う事と同時に、ね、皆に呼びかけて貰うのじゃなくてです、もう自ずと集まって来る所の、いわば肉の助かりと言うもの、いわゆる御利益というものが、付いて行かなければ人間の真実の幸せはない。信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞと。
みかげとは霊験と言うておられる。霊験のないと言う事は不思議な、と言うてはならない。不思議なもんじゃない。もし信心して祈って霊験がないならそれこそ、それの方が不思議じゃとこう仰る。ね。所がですね、ここには思わして貰う事なんです。ほんとに自分の心の助かりと言う事が中々難しい。一昨日昨日から朝の御理解頂いておりますとですね、それを愈々思うのです。ね。自分が愈々悪人と言う見地に立つまでは、ね、自分のような浅ましいと言う事に成って来るのであり自分の様に力の無い。
いわゆる無力なる我と言う事に成って来るである。そこにいわゆる巡りの自覚と言うか罪の自覚と言うか。自分が何十年間信心は頂いておっても、だけれども、信心を頂いていなかった昔の事を思うてみると。ほんとにああいう恐ろしい、ああいう罪を造ってきておる。ああいうご無礼を平気でやってきておる。人間だから当たり前の様に思うておる。昨日はですね一昨日から昨日の御理解をここで聞かれながらです、もうえらいそのあそこで涙を流しておられるんですよね。
私は感激してから涙を流しておられると思った。所が慙愧に絶えないのです。ね。ほんとに自分の様な自分の様なと思えば思うほどです。自分の様なものそりばってんここまで神様がお許し下さって、おかげを下さるもんだとこう言うわけなんですよ。ある教会で長い間と信心しよって、最近お導きを頂いてから大概月次祭には参って来る。遠方から参ってみえるんです。この前月次祭でお参りが出来なかったからと言うので、昨日参って来た。ね。長年信心をさして頂いてけれどもこう言う事に気が付かなかった。
そうして平気でこういうお粗末ご無礼をやってきた。ね。そして信心の無かった時分の事を思やあれがめぐりにならんはずがない、と言う様な巡りの元を私が造っておったんですもの私が今苦しまないや私じゃない、その子供が一つの難儀に直面しておるんですけれども、子供が難儀しなければならないはずだとこう言わけなんです。そこのにきが分かってきた。そしたらですねあそこで一生懸命感激しよんなさいます。
感激の涙じゃないその、いわゆる後からここへ出てきて見えてからの、言う事はその有り難涙ではなくてですね、相済まんと言う涙であった。もうものすごいお勇みがありました。そしてその事をお取次ぎ改めて頂かれた時に、私頂いた事がですね、「時効」と頂いた。あの時効と言うのは、時効に掛るというわけですね。例えば例えば殺人犯でもですね。ありゃ10年か15年か逃げ回る事が出来たら、もう無罪になると言うでしょう。もう効に掛ると言う訳なんです。
人が金借りとったっちゃってそうです。ね。もうある年期がくるともう払わんで請求する資格がないのです。貸したもんでも。私はそこん時ですね、ほんとにこの神様っちゃ有り難いと思たですね。どういうお粗末どういうご無礼ですね。まあ人殺しはしとるわけじゃなかろうけれども、いうなら人殺し的なです、形は殺しとらんけれども心で殺しておる。切れ物を持って傷つけておらんけれども、心の刃で傷つけておる。ね。それこそ形の上で、人を殺すならお上があってお仕置きになるんだけれども。
心で殺す罪の方が重いぞと教祖は仰っておられる。心で傷つける者の方が最も重いぞと仰っておられる。そういう意味合いでもってするならば、私どもが何人殺して来ただろう、何人傷つけて来たか分からんのだ。ね。二の句がつがれんようにピタッと、例えば言う人なんかは、いつも人の心を傷付けたり殺したりしとるとですよ。グウの音を言わん事言うたと。もう、良かんごと思うとるあれはそうなんです。そこで「馬鹿とあほうにはならにゃいけん」と言われるのはその為なんです。ね。
昨日私その事聞かせて頂いたらですね、その方はいうなら仏教的にいうなら、女犯の罪がある。いうならば女から手玉女を手玉に取ってきておる。若い時から。ね。そういういわゆる女犯の罪仏教的に言えばですね。罪に御理解を頂いて自分の心が戦いて来た。怖くなって来た。とても子供がそういうやっぱり、難儀な事にならなければならんのも、親がそういうめぐりを造って来たんだと言う事をです。
涙ながらに懺悔したさしてもらった。涙ながらにその事をお詫びさして頂いたらですね、「時効」と頂いた。もう過去の事は心配するなってもうお前のですね、そういうその詫びる心なんだ。ね。もうあれは一ついわば警察が、目を目に付けておるわけなんですよね。所がやっぱそのようあるですね、政治家なんかに。何とか献金とか言うて献金をしたり。ね。例えばその社会の為に何か事業をしたり。愈々自分の罪をですね、こうカムフラージュをする為にそう言う事する人がある。ね。
けれども矢張りあの信心でも同し事が言えるんすよ。ね。ほんとにお詫びの印にこれだけのおかげを頂いてから、ほんとにと言うてですね、で神様に喜んで頂く様な奉仕でも一生懸命しておるのを、例えばんならその神様が神様なら、もう今度いっちょあれば捕まえんならん。と思いようなさっちゃですね、そういう可愛らしい事、恋らしい事するとですね、もうついつい、「まあ一時見逃してやろう」と言う事になるのですよ。そしていうならば十何年間、見逃されて来たわけなんです。
そして椛目にご縁を頂いたいや合楽にご縁を頂いた。その事のいわばお粗末ご無礼を、愈々お粗末ご無礼であったと気付かせてもろうて、涙ながらにお詫びをさして頂く時に。神様は確かに、詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰るが、お許し下さるですね。今まで長年心に掛って来ておったお粗末ご無礼がです、時効にいわば掛ったと言う同じ意味のお許しを下さった、と言う御理解を頂いてから、今度は有り難涙です。ね。
これからはもうこれ程にここにおいてめぐりを造ってきた私で御座いますから、もうこれからはめぐりを造る生活はまあしてはならん。どうぞせんで済む様なおかげやお繰り合わせを頂きたいと言うて、昨日帰られました。ね。私はその肉の助かり霊の助かりと言う事を今日は申しておりますけれども、ね、自分の心が救われ助かって行くと言う事の中には、自分の罪の意識と言うか、めぐりの意識と言うものがです、ね、無くなる所まで私はお詫びし抜いて行かなきゃいけんと思うですね。
そこん所にです、ね、お詫びの印の信心がなされていかないけん。そこにいわば時効に掛る様な、お繰り合わせも下さるのである。ただ「済んません、すんません」ばっかじゃいかん。ね。私そういう事を思たら椛目でもずいぶん、そういう意味合いでおかげを受けてきた人達が、知るか知らずはありましょうけれどもです、違う中にそういうおかげを受けてる人達があろうと思う。
そしておかげを受けておるけれども矢張り、そのめぐりのいわゆる自責念と言うか。それで自分の心を用心しよう、わが心の鬼がわが身を責めるぞと言うようにです、わが心の鬼から責められておるような人もあろうかと思う。ね。その様にしてです例えば霊の助かりと言うものがあるのです。本当の所謂心の助かりと言う事は、ね、教えを頂いて心の中に悟るものがある。
そこに物の見方考え方が違ってくる所から、今まで難儀と思ておった、今まで腹が立っておった事の中にでも、反対にそれをお礼を申し上げる心が生まれて来る。自分の過去において様々なめぐりを造った。ね。様々ないうなら罪を犯してきた。けれどもそういう罪もです、信心さして頂く様になって、ほんとに過去の事について、詫びて詫びて詫び抜かせて頂く所の信心がなされる。お詫びの印の信心がなされて行く時にです。
それが時効に掛る様なお繰り合わせを頂いて、詫びれば許してやりたいと言う親心に接する事が出来る。そこからです私はいわゆる助けられたその心。ね。清められた様な心。罪の意識の無いその心を持って、愈々神様の喜び頂けるような御用に奉仕をする。ね。そこに神様のほんとに過去にはああいう人であったけれども。ああいう氏子ではあったけれども、信心さして頂くようになって、ね。
ああいう御用でも出来る様になった。ああいう生活が出来る様になった。そっから神様のいわゆる見方が変わって来る。神様の御信用がだんだん篤うなって来る。そこから頂けて来るのが、神様の御信用であり御神徳である。ね。そこから愈々今度は、肉の助かりがある。人間幸せの為に必要な一切の物が、ね、約束されるいわゆる無限に限りなく、その氏子の上におかげが現れて来る様になって来る。ね。
そこん所のおかげを頂いてこそ始めてです、霊肉共に助かって行くと言う、所謂ほんとの意味での、極楽の世界と言うのが、私はあるとこう思うのです。ですからですね皆さん、お互いにそこん所を願うてかないけません。只お取次ぎを頂いてお願いをして、地団駄踏むようなお願いをしてから、おかげを頂いて、ね、頂いたり頂かなかったり。ね。と言う様なおかげでは、本当の助かりじゃない。まず一つ魂の助かる事を願わしてもらう、為に本気で教えを頂き。
その教えを本気で行じさして頂く所のおかげを頂いて、肉の助かりである所の、原生的な利益とでも申しましょうか。ね。そういうおかげをしかも限りなく頂いて行けれる、道に折角縁を頂いておるんで御座いますから、そういうおかげの道を開いて行かなければです、馬鹿らしい事なのですから。霊肉共に助かって行くおかげ、そういう私は宗教をもって、ほんとの宗教真の信心と言うのは、そういう信心をもって真の信心と言うのじゃなかろうか、というふうに私は思うですね。
どうぞ。